アディダス サッカー日本代表
100周年アニバーサリーユニフォーム

サッカー日本代表の歴史を代表する2つのユニフォームをインスピレーションに、
現代的に復刻したモデルが限定スペシャルボックスと共に登場

中村俊輔選手のスペシャルインタビューを
公開!
彼にとっての日本代表とは、彼が思う日本サッカーの未来とは――。

インタビューを読む

1930年代の2つのユニフォームを現代的に復刻
1921年9月10日に創立され、今年2021年に記念すべき100周年を迎えた日本サッカー協会(JFA)。
1930年、日本代表チームは、初めて全国からの選抜メンバーで編成され、その時に「国土を取り巻く海」をコンセプトにユニフォームのカラーを青に制定しました。

そして1936年には青のユニフォームで、ベルリンで開催された国際スポーツイベントに出場し、世界の舞台で初のベスト8に勝ち進みました。
このサッカー日本代表100周年アニバーサリーユニフォームは、これら2つの青いユニフォームを参考に現代的に復刻したモデルです。
  • 約90年前を彷彿とさせる復刻デザイン

    1930年代のユニフォームに使用されたブルーをイメージして、メインカラーには「ライトブルー」を。 デザインもスリーボタンのポロシャツ型のクラシックなスタイルをそのまま採用。

    胸元には、1936年のユニフォームにインスパイアされたビッグサイズの日本国旗を刺繍で表現。 ある人にはどこか懐かしい、ある人には新鮮な、シンプルながら印象的なデザインとなっています。

  • 日本サッカー協会創立100周年記念サインオフ/スペシャルエディションバッジ

    100周年を記念し、襟裏部分にあしらわれたサインオフも特別仕様に。 数量限定モデルとして、スペシャルエディションバッジも。

    ロゴの「100」のデザインは、「過去への感謝」の気持ちと「未来への決意」とが結びつき、強い結束を表現したものです。 日本古来の「二重叶結び」(にじゅうかのうむすび)をモチーフに、日本サッカーのさらなる発展への願いを込めています。

  • サステナブルな生地

    今回のユニフォームには「PRIMEBLUE」を使用。

    PRIMEBLUEは、海岸や海沿いの地域で、海に流入する前に回収されたプラスチック廃棄物をアップサイクルして生まれた素材であるParley Ocean Plasticの糸を使用したパフォーマンスファブリックです。

限定パッケージ

日本が誇る伝統工芸品の桐箱をモチーフに、日本サッカー協会 創立100周年を祝う限定パッケージを制作。
限定パッケージは自立させることもでき、ユニフォームをディスプレイとしてお楽しみ頂く事も可能です。

  • 本体側面には、日本サッカー協会100周年のシンボルロゴを焼印で入れることで、日本サッカーの歴史を表現しました。

  • 付録品として日本サッカー史を物語る10種類のアイテムが印刷されたポストカードや、これまでの歴史を振り返ることができる年表が同梱されています。

商品ラインナップ

  • ¥19,800(税込)

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  • ¥15,400(税込)

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100周年記念バッジ付き / 通常ユニフォーム

  • ¥10,989(税込)

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  • ¥15,400(税込)

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  • ¥9,889(税込)

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  • ¥15,400(税込)

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  • ¥9,889(税込)

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アディダス サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム
アディダス サッカー日本代表100周年アニバーサリーユニフォーム
発売記念スペシャルインタビュー
中村俊輔
文:二宮寿朗

日本代表で長らくエースナンバーの「10」のユニフォームを背負い戦ってきた中村俊輔。先輩たちから受け継いできた誇りを胸に、「10」の価値をさらに高めようとしてきた。彼にとって日本代表とは、彼が思う日本サッカーの未来とは--。
初めての代表。通用する、しないのモノサシができた
――日本代表に初招集されたのが、1998 FIFAワールドカップの4カ月前の1998年2月のオーストラリア合宿。中村選手はまだ19歳でした。
中村:プロ1年目が終わって確か沖縄で川口能活さんたちと自主トレしていたときに、日本代表のメンバーが発表されたんです。メディアが多く押し掛けてきたから、能活さん目当てなんだろうなと思っていたら、自分も選ばれていたんです。その後、オーストラリアに行って凄く緊張したことを覚えています。ワールドカップ前だったので、みんなピリピリしていました。日本代表の選手たちのレベルってこんなに高いのかって思いましたよ。北澤(豪)さんを見たときに自分にはないボール回しの感覚を持っていて、宿舎に戻ってノートにそのことを書き込んだのを覚えています。学べたことが多くあったし、通用するところと通用しないところのモノサシができたのも自分にとっては大きかった。あのタイミングで代表に関われていなかったら、その後の自分も少し違っていたんじゃないかと思います。呼んでくれた岡田(武史)監督にはとても感謝しています。
――トルシエ監督時代の2000年2月、アジアナンバーワンを決める大会の予選のシンガポール戦で代表デビューを果たしました。どんな思い出がありますか?
中村:シンガポール代表との試合でデビューさせてもらって、次のブルネイ戦でゴールを決めることができた。ボンバー(中澤佑二)とか年の近い選手が多かったし、みんなトルシエ監督にアピールしなきゃっていう熱があって、自分もその勢いに混ざらせてもらった感じだったなって思います。
アディダス サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム
代表デビューは2000年のシンガポール戦。当時の背番号は23だった 写真:©JFA
――まずはチーム内の競争で勝っていかないとメンバーに生き残れないし、代表のユニフォームを着てピッチに立つことはできません。
中村:そのためにも自分が所属するクラブでどれだけ活躍できるかが大事でした。2002年夏にイタリアに移籍してからもそう。スタメンから外れる時期があると、どうしても不安になる。自分と同じポジションの選手も多かったですから。チームメイトとポジションを争っていると同時に、ここで試合に出られずに活躍できないようなら次は日本代表に呼ばれないぞっていう感覚です。これが毎週というか、ずっと続いていく。常にそのプレッシャーにさらされてはいました。
ロッカーで「10」番を見たらテンションが上がった
――ジーコ監督になってから「10」番を背負って、チームの中心を担います。
中村:ジーコ監督になって初めての試合(2002年10月、国際親善試合ジャマイカ戦)で10番をつけたときの感激は鮮明に覚えています。ロッカールームに入って、“10番のユニフォームを着ることできるんだ”と凄く誇らしかった。子どもたちがテレビで観る戦隊ヒーローが変身したら強くなるってあるじゃないですか。まさにそんな感じ。ユニフォームを着たら、自分が強くなったような気がするんです。
――思い入れのある日本代表のユニフォームを挙げてもらうとすれば、そのころのものになるのでしょうか?
中村:最初のインパクトは確かに強かったけど、どの試合であっても、どのユニフォームであっても、ロッカーで10番を見たらテンションが上がりました。だって、ずっと目標にしてきたことだから。自信を持って試合に臨むことができたし、10番を背負う選手としてチームを助けるプレーをして勝利に貢献したいっていう気持ちが湧き出てくるんです。
――10番に憧れてきたからこそ、その重みも人一倍強く感じたところもあったのではないでしょうか?
中村:木村和司さん、ラモス瑠偉さん、名波浩さんたちが身につけてきた伝統ある番号。自分にとっては特別な番号なんです。日本代表の10番をつけてプレーする目標は叶えたのだから、今度は10番にふさわしいプレーをしなくてはというふうに目標が変わりました。自分で自分にプレッシャーを掛けて、その重みを積み上げていこうと考えました。
アディダス サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム
アジアナンバーワンを決める大会ではチームを優勝に導き、自身もMVPを獲得 写真:©JFA
――2004年夏、中国で開催されたアジアナンバーワンを決める大会で日本代表は2連覇を達成します。中村選手は全6試合にフル出場して優勝に貢献し、大会MVPを獲得します。
中村:試合の最後まで出て戦いたいという気持ちは常に持っているもの。後半になって相手が疲れてくればくるほど、チャンスの可能性が広がるので。(終盤だろうが)もっと動ける、もっとパスも出せる、そんな感覚でした。夏だったし、湿度も高かったけど、試合をこなしていても疲れは感じなかった。あの大会はみんなの思いも強かったし、チームが一つになって戦えたから優勝できたとは思います。海外から呼ばれたのは僕と能活さんだけ。“結果が出なかったら自分は終わり”くらい、自分にプレッシャーを掛けました。
苦しかった南アフリカワールドカップの経験を糧に
――2006 FIFAワールドカップでは1分け2敗でグループリーグ最下位に終わり、リベンジの思いを持って臨んだのが2010 FIFAワールドカップです。しかし大会直前にスタメンから外れることになり、とても苦しみました。
中村:調子が上がらなかったことは事実ですし、出場するかしないかの判断は監督がすること。自分に対して不甲斐ないっていう気持ちと、チーム内における立場も違ってきて絶望感しかなかったですね。
アディダス サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム
2006 FIFAワールドカップ初戦オーストラリア戦でFIFAワールドカップ初出場を果たし先制点を挙げるも、グループリーグ敗退と不本意な形で大会を終えた 写真:©JFA
――当時の思いを「心に大ケガを負った」というふうに表現することもありました。
中村:それでも何とか粘ろうと思うようにはしました。全体練習後に、ほかのサブメンバーと一緒に時間が許す限り自分のトレーニングをして、試合になったらスタメンで出ている選手を鼓舞していこうって。チームが一つになるとこうなるんだと、ピッチで活躍して経験できれば一番良かったんですけど、スタメンじゃない立場でもそのことを経験できたのは大きかったと思います。宿舎に戻って1人になるとまた苦しい気持ちが出てきたりするんですけど、年長者の能活さんが部屋に来てくれて励ましてくれたりもした。能活さんはじめチームメイトに助けられたところも凄くあるんですよ。2004年にアジアナンバーワンになったときに、控えにいたマツさん(松田直樹)やアツさん(三浦淳宏)、先輩たちがタオルや水を持ってくれたり、チームを盛り上げたりしてくれた。代表というのは、ただ呼ばれました、ただいいプレーしましたっていう場所じゃない。受け継いでいくものだし、(南アフリカのときは)それを試されているのかなっていう感じも自分のなかにはありました。
――この大会を最後に、日本代表を引退することになります。通算98試合。実に8年以上も10番をつけて戦いました。
中村:すべては日本代表のために、と思ってやってきたつもりです。自分で重くしていたところもある。でも日本代表とはそれくらいの場所。日本代表で戦った先輩たちがそんな存在にしてくれたんだと思います。僕にとっては誇りに思える場所だったし、やり甲斐のある場所でした。
――日本代表を離れた後の2013年には2度目のJリーグMVPを獲得します。35歳、最年長での受賞(当時)となりました。
中村:やっぱり南アフリカの経験を次につなげないと意味がない。“見返したい”という思いはあったし、もがき続けました。これからは横浜F・マリノスのために戦っていくという気持ちでしたから。だから、優勝を逃がしてしまったことはとても残念でしたけど、みんなの力があってMVPをもらうことができました。うまくいかないときもあるけど、努力をやめなければどこかで報われるときはある。プレーヤーとして生き延びることができたなって思いました。
次の世代に残していく責任が日本代表にはある
――日本代表引退後も日本代表のことは気になっていましたか?
中村:それはもちろん。この監督は、こういうサッカーを目指そうとしているんだとか、チーム的にこう変化してきているんだとか、そんなことを考えながら見ています。
――中村選手が海外でプレーしていたころ、同じように海外でプレーする選手はまだ少数でしたが、今では多くの選手が海外に渡ってプレーしています。
中村:海外で起こっていたことが、今、日本でも起こっているということなんだと思います。海外でプレーした経験のある選手が日本に持ち返って指導者になって次の世代に落とし込んでいけば、次の段階に入ってくると思うんです。子どもたちを教える指導者のレベルが急に上がることはないと思うので、段々とレベルが上がっていけばいいし、環境が整えばいい。今はそのサイクルの途中にあるのではないかと思います。
――将来、日本代表のユニフォームを着てプレーすることを目指す子どもたちに、中村選手の経験から何か伝えられることはありますか?
中村:今の子どもたちは欧州チャンピオンズリーグでプレーしたいとか、欧州のビッグクラブに行きたいとか、それが夢なのかもしれない。その夢を持ちつつも、やっぱり日本代表のユニフォームを身につけて、ワールドカップの場で戦う喜び、感動を味わってほしいなって思います。そのためにも“100年後”に絡めて言うなら、日本代表の価値を上げていくことはとても大切。次の世代の人たちのために残していく。日本代表にはその責任があると僕は思います。
――今年はJFA100周年。100年後、日本サッカー界がどうなっていけばいいと思いますか?
中村:イメージするのはなかなか難しいですね(笑)。一つ大事になるのはJリーグじゃないですか。サッカーの人気が高くなって、環境がもっとよくなっていけば、Jリーグに行きたいっていう外国人選手とか、海外よりもJリーグって考える日本人選手が増えてくるかもしれない。そうなればJリーグならではのスタイルっていう個性が強くなると思うし、日本代表にとっても必ずプラスになる。日本代表の存在価値を高めていくためにも100年後に向けてJリーグのこれからが重要なのかなって感じます。
――100周年アニバーサリーユニフォームの印象はどうでしょう?
中村:伝統を感じるし、カッコいいですよね。誰が着ると似合うのかなって考えると、やっぱり釜本(邦茂)さんですかね。僕も着たかったですね(笑)。
――では最後に。“後輩”となる日本代表選手に対してメッセージをお願いいたします。
中村:言葉にするまでもないですよ。みんな先輩の伝統を継いで魂を込めて戦っていると思いますし。頑張ってほしい。それだけです、本当に。
アディダス サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム
2010年に32歳で代表を引退。代表戦98試合のうち80試合で「10」番を背負った 写真:本人提供